山田悠 Noctrne を観る

山田悠「Nocturne」をポエティックスケープで観賞しました。初めて作品を拝見しましたが、いろいろ衝撃を受けました。作品の内容について具体的に感想を言う前に、少し考えをまとめたいというか、しばらく熟成させたい気分です。ひと言では言い表せないし、ひと言では言い表すのがもったいないくらいです。

過去作も魅力的で、今作を含め一つひとつ山田さんから話を聞くにつれ、ああこの方は、気になること、探求したいことに一貫性がある作家さんだと思いました。オーナーの柿島さん曰く、筋が通ってる人/作品で、まさにその通りだと。

筋が通った人の話や作品は、多層さと複雑味の中に潔さがあり、観ていて心地良くなります。かなり泥臭く根気の要る作品作りをしながらも、アウトプットする作品に品性や姿勢の良さが感じられます。

決して美しさを求めて美しく仕上げるのではなく、常日頃気になっていることを突き詰めるうちに、自ずと作品に相応しい美しさを獲得しているような気がします。

今作「Nocturne」は映像インスタレーションとコラージュの2部屋に分かれた構成になっています。壁面に投影されたインスタレーションも額装されたコラージュも、予備知識がなくても興味深く見られますが、山田さんと話しながら観ていくとさらに一歩ずつ奥へ入っていけます。作品も山田さんの言葉も、こじつけや屁理屈とは無縁で、作品を作る動機も過程も手法も説得力があります。

時間が経てば経つほどに、じわじわと作品が脳内に浸透していきます。難しく考える必要はないけれど、深く考えていきたくなります。初観賞を終えたばかりなので、まだまだ考え続けたいです。

渡部敏哉さんの超現実世界にフルダイブ!

ようやく渡部敏哉さんの写真展「Somewhere not Here」を観にポエティックスケープへ。先行して発売された写真集は水墨画の掛け軸を想起させる仕掛けで紙の表現を拡張する素晴らしい一冊だった。写真集と写真展はまったく別物とよく言われるけれど、道すがら展示はどうなるのだろうといろいろと想像を膨らませていた。

いざギャラリー内へ。展示は極めて定石だった。特別な仕掛けはなく、美しく額装された作品が展示数を抑えめにしてバランスよく配されていて、一点一点をゆっくりと観賞できる。お陰で今まで以上に一点ずつにフォーカスして没入することができた。観るにつれどんどんと額の中へ入り込んでいける。

これまでの同シリーズの展示では、彼方と此方の間(あわい)を行き来したり、こちら側からあちら側を覗き込むような感覚になっていた。今回は少し座標がずれてあちら側に足を踏み入れてるような印象を持った。これは長年見続けているせいで、勝手に作品の展開を自分なりに進めてしまっているかもしれないが、むしろ観賞者の想像力で作品世界を進展させたくなる懐の深さがあるとも言える。もっと妄想させてもらえれば、汗だくでベッドから起きあがり現実の世界に戻った気でいたけど、実はまだ向こう側に居るみたいな違和感も覚えた。これは写真集ではついぞ得られなかった感覚だ。

アニメのソードアートオンラインでは仮想空間に五感が伴うフルダイブをして現実世界に戻れ(ログアウトでき)なくなるという展開になる。渡部敏哉さんの写真展では「超現実世界」に視覚がダイブしていくような体験ができる。もちろんちゃんとログアウトしてこちら側に戻ってこれるわけだけど、ふとこんな超現実空間にフルダイブしてみても面白そうだと思ってしまった。万が一ログアウトできなくなったらその時はその時だ。

[写真集]渡部敏哉 SOMEWHERE NOT HERE に驚く

渡部敏哉さんの待望の写真集が年末に届いてまだ興奮冷めやらず。表紙も中身もすべてが驚きの連続。ともすれば、ばらばらに破綻してしまうかもしれない仕掛けが、からくり人形のように無駄なく精緻に噛み合い、類の無い集散離合の世界を作り上げている。

最初に思い浮かぶのが水墨画。渡部さんの写真の魅力のひとつに、主体を意識させつつ、その主体が滲んで霞んでいくような儚さにある。これは水墨画を観る感覚に近い。この写真集は随所に紙が折り込まれていて、絵合わせパズルようになっている。元のスクエアフォーマットの写真が大胆に折られて、見切れたり隠れたりしている。中でも縦長にマスキングされた写真は水墨画の掛け軸を想起させる。

余白や白紙の使い方も絶妙で、写真と写真の関係性が捲り方でどんどん変化していくのがとても面白い。程よい余白を取ったかと思えば、余白なしで地続きになってるものもある。観音開きに折られたページも開くと白紙だったりする。元のスクエアフォーマットを思い切って崩しているにも関わらず、「SOMEWHERE NOT HERE」シリーズの幽玄深淵な世界観を良い意味で拡張して、さらに集散離合の世界も獲得してしまった。

あちら側とこちら側、彼方と此方、並行世界、もしくはその境界線というのは、パキッと分かれているわけではなくて、同時空に存在しているのではないか? この写真集を読みながらそんなことを考えた。大きい風船(彼方)の中に小さい風船(此方)があるようなイメージ。平たく言えば宇宙の中に地球があるような感じ。此方に居るということは、同時に彼方にも居ることにもなる。妄想が止まらない(笑)

一枚画では感じ取れないこの写真集ならではの体験。幾つものイメージがひとつになったり、ひとつのイメージが幾つも散り散りになったり。それでいて全然わちゃわちゃせずに、すべてが腑に落ちる。「そうそう、そういう摂理だよきっと」と納得してしまう。

結局のところ何よりシンプルに美しい写真集だというところに戻ってくる。読めば読むほど目と指がやたらと喜んでしまう。写真展と写真集は別物とよく言われるが、これほどまでに別物になっていながらも、最高に幸せな補完関係になっているのも稀なのではないだろうか。早く渡部敏哉さんご本人に、この感動を伝えたい。

染谷學「六の舟」

残滓感のある写真 ── 染谷さんの写真を常々そう思っている。銀塩の極みと言えるファインプリントから伝わる微かな残滓。一点の曇りもない美しいプリントの奥底に見え隠れする沈殿物のような何か。観るたびにじわじわと伝わってくる。以前、にごり酒に例えたことがあるけど、別の言い方をすれば、そのまま飲めるほどの澄んだ清流にも淀みがあるのと似た感じ。それが私なりに解釈している染谷さんの写真。

「六の舟」は文字通り津々浦々の港町を撮り歩いた写真で、この3年ほど撮り溜めたものを展示していた。ハレとケで言えばケ。特別なものが写っているわけではないし、押しも強くないのに、プリントの密度が高くて比重も大きく、どっしりとした感じがした。今まで見た中でも特にそう感じた。このシリーズはこれで一区切りとのことだったので、それが影響しているのか、それとも一区切りと聴いてしまった自分自身のバイアスなのかはわからない。

書を額装してもらう

今年の5月に流浪堂で華雪さんの書展を拝見して、一枚の「心」の書に惹かれ購入させていただいた。その作品は裏打ちこそされていたが、額装なしで上辺だけ壁に留めて展示してあった。空調や人の出入りでひらひらと揺らめく様がとても印象的で、額装はお願いせずにシートのみで注文した。

会期後に流浪堂を訪ね、改めて作品を確認してから受け取り店を後にした。道すがらもう一度中を見て観たくなって、駅前のカフェに寄り、コーヒーをテーブルの端に寄せつつ、梱包を解き作品を確認する。やっぱりシートのままでも美しかった。このまま展示の印象を大事にしてもいいかとも思った。でも、この「心」はいつも目にする場所に飾りたいとも思った。数日考えて、いつも頼りにしているポエティックスケープの柿島さんに額装を相談することにした。

作品を平置きしてフレームサンプルを当てながら検討する。あれこれ試しているうちに、上から覗き込む感じがこの作品に合っているようだった。やや細長い作品だったこともあり、龍安寺の石庭を俯瞰で見るような感覚になった。もちろん壁にかけることが前提だけれど、その石庭というか箱庭を覗き込むようなイメージに近づけるために、深さのあるボックスフレームにすることにした。細身のフレームは書に合わせて墨色に塗り、薄らと木目を残す仕上げにしてもらう。覗き込むように近づいて観ることを考慮して、かぶせのアクリルは映り込みの少ない低反射を選んだ。

ひと月ほどして額装が出来上がりましたと連絡があり、早速受け取りに行く。差し箱から出てきた額装の仕上がりに唸った。まさに覗き込むような奥行き感があり、絶妙なバランスでモダンに映える書の額装になっていた。お願いして本当によかった。時に垂直、時に水平で楽しめる華雪さんの書。長く向き合って行きたいと思う。

高橋恭司さんが視るパリの深層

高橋恭司さんの新作『Midnight Call』がかなり良い。

私が写真に興味を持ってから12年くらいになる。それが長いのか短いのかはわからないけれど、昔に比べれば「みる」力を養わせてもらえていると思っていた。でも、高橋恭司さんの新作を観た時に、ああ明らかにものの見方が違う人だなと愕然とした。一塊の写真好きがこんなことを言うのもおこがましいのだけれど、どうしようもない敵わなさみたいなものを新作の『Midnight Call』に感じた。

これはどれだけ見る目を養おうが辿り着けないであろう境地とうか。世の中を見ている「角度」が違うというより「深度」が違うという方がしっくりくる。世の中をinformationではなくてintelligenceで見ている。目には見えてこない深層を捉えようとしている。それもごくごく自然かつ日常的にな営みとして。そこに高橋恭司さんの怖さがある。

初期からずっと見てきたわけではないし、断片的にしか作品を見てこなかったから、今まで高橋恭司さんに対して明確な印象を持てないでいた。さらに近年は精力的に活動しているとは言い難く、作品を発表する機会も限定的だったから、興味はありながらもあまり追っ掛けて見ることもできなかった。

前作の『WOrld’s End』は30年前の写真を含めたものだったし、新刊ではあるものの新作とは言い切れなかったから、自分にとってこの『Midnight Call』こそが新作であり、本格的に高橋恭司さんの写真に触れているという感触がある写真集となった。それも恐ろしいほどの強度を持ってやってきた。

ご本人がどれほどの気持ちで撮っているかはわからないし、それほど気負ったものでもないのかもしれない。それでも仙人が杖を軽く振りかざすだけで嵐が起きてしまったようなインパクトがあった。全身全霊でなくとも能力の片鱗を見せるだけでも真価を発揮できるというか。ちょっと言い過ぎかもしれないけれど、それくらい今回の新作は魅力的な写真集だった。

それもこれも編集を担当した安東崇史さんに依るところが大きい。後書きのテキストは素晴らしい内容で、目には見えないパリの深層と高橋恭司の写真を見事に接続していて、安東さんのテキストはこの写真集に欠かせない要素になっている。途中の高橋さん本人の詩的なテキストや天袋とじの製本が相まって、作品の理解を深めつつも、ガイドは入り口まで、あとはご自由にどうぞという感じも良い。お言葉に甘えて好き勝手に妄想したり自由に解釈したりして楽しませてもらっている。

野村浩さんの個展、第二部を観る。

第二部のOcellusの初日。夕方に雨が上がり少し汗ばむくらいの梅雨の晴れ間がのぞいた。今日は仕事をいつもより早めに切り上げてポエティック・スケープへ。第二部は特大サイズから極小サイズまで号数違いの作品が壁面を巧みに使って構成されていた。ギャラリーの天井に届かんほどの一番大きいP100号の大作は見応え充分。ギャラリー内では美術館みたいに距離が取れない分、作品の前に立つと視界いっぱいに絵の世界が広がる。

一点ずつまじまじと観ると頭の中で「擬態」について考え始める。眼がさまざまなモチーフに擬態していて…眼が絵自体に擬態していて…擬態が擬態して擬態するみたいに、どんどん思考が錯綜して混乱してくる。うん、楽しい。ある意味、作品は至れり尽くせりなのに、種明かしをする訳ではない。実はこうしてるんですと打ち明けられても、別にそれは答えではなくて、あくまできっかけに過ぎない。作品を理解することが目的じゃなくて、作品を前にして延々と考え続けることが当面の目標にしておく。観ながら考えていくうちに知らぬ間にズブズブと作品世界にはまり込んでいく。絵画を通して観て考えてを繰り返す。とても新鮮な感覚。

絵画に興味がないわけではないけれど、積極的に見るかと言えばそうでもない。美術館で見ることはあるものの、あの絵が見たい!というのは正直少なかった。結果的にとても楽しめたものをひとつ挙げるとすれば、東京ステーションギャラリーで2016年に開催された『ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏』だ。モランディの油彩や版画を観ながらわくわくが止まらなくなったのを憶えている。あの時ほど能動的に絵画を楽しく観賞したことはなかったかもしれない。

奇しくもモランディ繋がりで、昨年の『Merandi』で絵画への興味が増幅して、今年の『101 EYES’ GLASSES Paintings』と『Ocellus』でさらに追い討ちをかけてもらえた。絵画をこんなに興味深く観ることができるのも野村さんのおかげ。興味が少しずつズレて広がっていく感じがとても心地よい。

今思うと自分の興味の移り変わりは、野村さんの作品と同心円上にある気がしなくもない。写真を始めてから銀塩に出会って、撮る・焼く・観るを続けるうちに、他の写真技法に興味が湧いていった。後か先かははっきり覚えていないけど、プラチナパラジウムプリントに興味を持ったタイミングで、吉祥寺のA-thingsで『Slash/Ghost』が開催された。さらにサイアノタイプに興味が出た頃合いに『Invisible Ink』が開催された。版画然り、油彩然りだ。

野村さんは表現方法が変わっていっても、表現し続けたいことは一貫していて、選ばれた技法には必然性がある。表現方法の変遷を含めて含意を楽しめるし、作品を前にしてあれこれ考え続けたくなる。要するに、野村浩は極めて推し甲斐があるマルチメディアな美術家なのだ。

[写真集]石川竜一 いのちのうちがわ

今まで石川竜一を積極的に見てこなかった。嫌っているわけでも興味がないわけでもないのだけど、写真展も写真集もあまり見てこなかった。記憶にあるのは2014年の「okinawa portraits 2010-2012」で、これを見に行ったというよりは、他の展示を見ていた流れでPlaceMに寄っただけだった。彼の強い撮影スタイルに凄みを感じながらも、インパクトが強すぎて思考停止になる感覚があり馴染めずにいた。

今回の原宿の写真展も見逃した。会期終了間際になって写真展があったことを知り、少し興味を持っていたけれど、結局見に行かなかった。それでも「いのちのうちがわ」というタイトルと、SNSにアップロードされたいくつかの写真が頭から離れなくなり、ずっと引きずっていた。ひょっとしてけっこう大切な写真展を見逃してしまったかもしれないと思った。

後日、赤々舎から同名の写真集が出るのを知ってWEBサイトを見てみた。今までの石川竜一とはスタイルが変わっているようだった。といっても彼のスタイルを語れるほど作品を見てきたわけではないので大したことは言えないけれど、どういう経緯で今回の写真になったのか知りたくなった。写真集を見てみたい、とにかく手に取ってみたい、という衝動に駆られた。

ポエティックスケープで予約注文してから3週間、ようやく写真集が自宅に届いた。すぐさま開梱してどっかと写真集を机に乗せてみる。とにかく大きくて重たい。判型はレーザーディスクのジャケットくらいあり、厚みも5cm近くある。分厚いクラフトボール紙の表紙に本紙の束が挟まれてゴムバンドで閉じられている。冊子ではなくポートフォリオ形式で、二つ折りのシートが重ねられていた。スクラム製本するなら二つ折りの折り目をノドにして束ねる作りになるはずだが、二つ折りのシートをそのままラザニアのように重ねてあるだけだった。

装丁と重さに驚いてなかなか本題に入れかかったが、ようやく中身を見てみることに。自動車のタイミングベルトみたいなゴツいゴムバンドを外して表紙のボール紙を除く。タイトルが印刷されたシートをめくり、写真を見ていく。二つ折りのシートを開くと見開きの右側に写真があった。順にめくっていく。

まずその凄まじい解像度と印刷の美しさに気圧される。言い方が変かもしれないが、肉眼を超えた解像度と言えばいいんだろうか。異常な立体感があり、写るものの生々しさを通り越してしまい、逆に冷静に見ていられるくらいだ。

先にも言ったけど、石川竜一を語れるほど彼の写真を見ていない。だから、ここに辿り着いた経緯も知らないし心境もわからない。でもこれは紛れもなくポートレートだと思った。石川竜一はポートレートを撮っていた。「いのちのうちがわ」というタイトルが表す通りだ。

生を知るために表層では飽き足らず、内側のそのまた内側を見ようとする貪欲な姿勢を感じた。目に見える世界の範囲で、かつポートレートととして成立するギリギリのライン。これが組織や細胞、分子までいくと、おそらくポートレートではなくなってしまう。あくまで肉眼で捉えられ、石川竜一が扱えるカメラで写せる範囲。目に見えない側の「生」ではなくて、目に見える側の「生」の極みだ。

だからこそ、これほどの印刷のクオリティが必要だった。過剰なまでの解像度が求められたのではと思う。メタファー任せにせずに、現物で生を訴えるためには、現物を有り有りと見せつけるしかない。極限までの現物感を示したかったのではと想像する。

きっと私は今後も石川竜一を追いかけることはしないかもしれないが、少なくともこの「いのちのうちがわ」は、手元に置いておいて、見るたびに圧倒され続けるんだと思う。

華雪さんの書展を観る

流浪堂で華雪さんの書展を拝見した。題は「みえないものたち」。一文字書の「心」を中心に「異」や「气」を集め展示してあった。小作品とは思えない力強さがあり、自然と目の前の一文字に凝集していく。ともすると意識をもっていかれそうになる。「心」は何通りもあり、同じ「心」でも筆致によって有り様が全く変わってくる。

最近、どうしようも無く心が乱れることがあった。他人も責めて、自分も責めてしまっていた。感情が掻き乱されて収拾がつかなくなった。しばしば体調も悪くした。仔細は省くけど、ここ数日いろいろな支えがあり、今は立ち直って心の乱れも治まってきた。

心は身体と密接に繋がっていて相互に作用する。体調が崩れれば心も崩れ、心が弱れば身体も弱る。心躍れば疲れも飛び、心休まれば身体も休まる。心はとても不安定でいろいろな物事に左右される。些細なことで、すぐにさざなみが立って、波を打ち、渦を巻いてしまう。

華雪さんの書を見ながらしばらく考えてみた。そもそも心は不安定なんだろうか? 華雪さんの「心」は静かに澄み渡るようではないし、かといって荒々しくもない。でも穏やかとも言えない。揺れ動きながらいかようにも形を変えていて、常に動的なのではないか。心は常に形を変え動いているもの。そう考えるだけでも受け止め方が変わってくる。

久しぶりに華雪さんの囚われのない書にふれて、なんだか心の弾力が回復した気がする。今の自分にとってとても有難いひと時だった。

[写真集]UNDERCOVER – Onnis Luque

写真家であり建築家でもあるオニス・ルケの写真集「Undercover」。今年の1月に独立系の写真集出版社The Velvet Cell(以降TVC)から予約販売されていたのをみつけて、プリント付きの特装版を予約していた。ちなみにデザイン編集は、写真集としては空前のヒットとなっている「Carpoolers」でおなじみのアレハンドロ・カタジーナも参加しているのも注目。

先日無事に届いたので開封してみると、思っていたよりしっかりした造本で驚いた。もう少しラフな冊子だと思っていたからうれしい誤算。判型もA4より一回り大きい22x33cmで存在感がある。そもそも買う時にサイトの情報を確認してなかっただけなんだけど。判型が大きいのと用紙の斤量も厚めで、本の厚み以上にずしっと重たい。しばらくして気づいたけど、奥付に用紙の種類と斤量まで記載があった。なんか親切。

海外の写真集では珍しくダストカバー付き。厚手のトレーシングペーパー製で、この写真集のモチーフになっている防音シートの写真が印刷されていてる。防音シートとは建設中もしくは解体中の建物を覆って現場の騒音を軽減するための幕のことだ。その防音シートが印刷されたカバー越しに、白地の表紙に印刷された「UNDERCOVER Onnis Luque」が透けて見える。シート越しに見える建物をイメージした仕掛けで、カバーも含めて作品の世界観を表現している。

中を見てみる。途中寄稿文を挟み、ひたすら防音シートで覆われた建物のモノクロ写真が続く。最初は寄りの写真で始まり、中盤からは建物全体が見える引きの写真が多くなる。1ページにひとつの建物と、見開き2ページでひとつの建物が混ざり合いながら多少のリズム感はありつつも、坦々と建物の写真が続いていく。

私はこの防音シートに覆われた建物が好きで、スマホでもつい撮ってしまう癖がある。だからTVCで見つけた時に、こういう写真集を待ってましたとばかりにジャケ買いをした。だから、サイトのテキストをろくに読んでいなくて、なぜオニス・ルケ氏がこれらの建物を撮っているのかを理解していなかった。

写真集を一読した後、サイトのテキストを改めて読んでみた。私はずいぶんと思い違いをしていたようだ。それでもジャケ買いがきっかけでオニス・ルケ氏がなぜ幕に覆われた建物を写真集にしたのかを知ることができた。きっかけは何でも良い。そこから何を知って何を考えるかが大事ということ。

さて、自分の解釈で感想を述べてもよかったのですが、やはりTVCとオニス・ルケ氏のテキストを読んでもらう方が良いと思い引用することにしました。DeepLで自動翻訳して「ですます調」に統一。単語、文章には手を加えていません。英語原文ままでないことはご了承ください。

2017年9月19日、メキシコシティ近郊でマグニチュード7.1の地震が発生しました。首都の多くの建物が破壊され、現在までに少なくとも200人の死亡者が報告されています。この地震は、1985年に発生したマグニチュード8.1のメキシコシティ地震からちょうど32年目の年に発生した。 ジャーナリストの調査によると、被害を受けた建物の多くが不適切な基準で建てられていたことが判明しました。国と不動産会社との間の汚職が、多くの不必要な死をもたらしたことが判明したのです。写真家であり建築家でもあるオニス・ルケは、これらの出来事を作品の中で取り上げたいと考えました。両方の地震を経験した彼は、これらの悲劇が生み出す不確実性について、視覚的なメタファーを作りたいと考えました。

「あの日、多くの人が亡くなりました。このことについて何か言いたいことがあったのですが、感情的に圧倒されてしまいました。そこで私は、黒く覆われた建物を無意識のうちに弔いのサインとして使えるのではないかと考えました。それらの多くは、地震によって損傷を受けたものであり、他方では怪しい契約によって開発された新しい建物でした。『Undercover』では、メキシコシティの組織的な腐敗という問題に光を当てようとしています」 – オニス・ルケ

(The Velvet Cellのサイト内のテキストをDeepLにて自動翻訳)

野村浩さんの個展、第一部を観る。

待ち侘びた野村浩さんの個展が始まった。まずは第一部「101 EYES’ GLASSES Paintings」を観に行ってきました。目玉のあるショットグラスが描かれたペインティング作品101点。ギャラリーに入ってすぐ、こっちが観に来たはずなんだけど、案の定めっちゃこっち見られてる気がするし。多勢に無勢で敵いっこない。でも、これこれこれなのよ。見る見られるの定位がひっくり返ったり崩れたりする感覚。これが楽しいわけ。野村浩の世界へようこそって感じ。個展に寄せたテキストに「絵の飼育」と表現されていて、確かにそうでしょう、そうでしょうとも。すくすく育ってますとも。何のこっちゃわからない方は、ぜひ足を運んで確認してください。

今回の作品は水平に横一文字で飾られていて、ギャラリーをぐるっと一周する構成になっている。上下左右に散らしたり壁一面を埋めたりする遊びのある構成ではない。しかも、いつもなら床面からの一定の高さを保って掛けらるのに、床面からの距離はお構いなしに絶対水平で掛けられている。ポエティックスケープは中央の細い廊下から一段小上がりになっている。いつもはその小上がりから作品も一段高く掛けられることが多い。その方が観賞者の目線が一定になり見やすいから。でも今回は絶対水平。観賞者よりも作品を優先したというか、優遇したというか、あまりない試み。

一点一点真剣に観る。多分皆さんが思っている以上に真剣に。本気と書いてマジと読むように、真剣と書いてガチと読むんです(?) 観れば観るほど、居れば居るほど、語れば語るほどに、深い深い底無しの沼へ引き摺り込まれる。もう楽し過ぎるでしょ。ギャラリーでは努めて穏やかにそして和やかに観ていましたけどね、心の中ではガッツポーズ決めながら、くるくる小躍りしてはしゃぎ回ってましたよ、ほんとに。下手くそな昇龍拳状態ですよ。

で、奥のスペースに入ったら、リアルなショットグラスが101個、整然と並んでるのを見てノックアウト。これは実際に行って見て聞いて語りあって見るべしです。このショットグラスについてはそんなに書かないでおきます。すっごい装置ですよこれ。

第一部、まずは一巡目を堪能しました。もう一回くらいは観たい。それから第二部もかなりの力作と聞いているのでこれまた楽しみです。とにかく鬱屈とした日々ですからね、いい意味で揺さぶりをかけてくれる作品に触れると、よしいろいろがんばろうってなります。ちなみにショットグラスも買うと、家でも個展の延長戦ができます。クリア後の世界の方が奥深いみたいなやつです。

野村浩さんの個展がはじまる!

野村浩さんの個展がはじまる! DM見てるだけでテンション上がる。底無しの沼だろうと果てしない大海原だろうと、作品世界に身を委ねるのみ。とにかく楽しみだ。

野村浩 展 101 EYES’ GLASSES Paintings & Ocellus
会場:POETIC SCAPE
会期:
(第一部)「101 EYES’ GLASSES Paintings」 2021年 4月10日〜 5月15日
(第二部)「Ocellus」 5月22日 7月10日
時間:水曜〜土曜 13:00-19:00
休廊:日曜〜火曜

熊谷聖司さんの写真集とプリント

「眼の歓びの為に 指の悦びの為に この大いなる歓喜の為に わたしは尽す」

涙ちょちょぎれそうなタイトルにグッときて、ひっさしぶりの熊谷さんの新たな写真集と新たな手焼きプリントを見にブックオブスキュラに。

多彩な冬の光。繊細な色。良すぎる。額も良い。熊谷さんオリジナルの手塗り額。写真、マット、額が最高にハマっていて、納得感ありすぎて、うんうん頷くばかり。

カラー写真でみるピクトリアリスムのようであり、すでにフォト・セセッションのようでもある。熊谷さんの暗室ワークが加わることで、ストレートフォトからさらに跳躍してる。さらにさらに写真を飛躍させてくれそうな。写真の妙味がたっぷり。

写真集は、今とこれからを予感させる、削ぎ落とされた一冊になってる。判型、装丁、タイトル、用紙、写真の並び、写真の色、奥付などなど、どれも必然性を感じる。熊谷さん、いつも感性を理性で理性を感性で表現してる。天才でありながら職人気質。努力を継続した先に辿り着ける達人の領域なのではと。

これ見たら写真が好きにならないわけない。少なくとも私はさらに写真が好きになりました。

[写真集]待ってました!モルテン・ランゲの新作「Ghost Witness」

スウェーデン出身のアーティスト、Mårten Lange(モルテン・ランゲ)の待望の新作写真集「Ghost Witness」が届きましたよ! 待ってました! 一昨年から「どうやらモルテン、中国で撮ってて新しい写真集出るらしいよ」と新作の噂はあって、かなり楽しみにしていたんで、うれしくてうれしくて。

SNSで予約開始したと知ってから国内販売が待ちきれなくなってしまい(おそらく普通に待っていても手に入れられるのはほぼ同じタイミングだったろうけど)、フランスのLoose Joints Publishingで特装版を予約した。通常版でも別にいいかなって思ってたんだけど、特装版の内容見たらもう即決。タトウ式のパッケージ入りで、プリントが2枚も付くセットなのに、£270はあまりにも魅力的だったわけで。

今回の新作「Ghost Witness」は、急速な発展を続ける中国の巨大都市を主題に、古来より伝承される怪談や超自然的なイメージを建築物に重ね合わせた写真集になっている。過去を振り返ることなくひたすら未来へ突き進む様と、経済が発展すればするほど取り残されていく亡霊のような何かを同時に提示している。

これまでの作品よりも批評的な内容とも取れるけど、中国の両面性を興味深く観察していて、むしろ肯定的に捉えている。モルテン・ランゲらしい好奇心旺盛なアプローチでとても楽しめる写真集。フラットな画作りなのに、あまりドライな印象は受けず、むしろ高い熱量を宿している不思議さ。逆に言えば、めちゃめちゃ興味津々のくせに、けっこう遠くから見ている距離感が面白いんだけど。

特装版の2枚のプリントは、今額装しようかどうか悩んでいる。額装するにしてもそれぞれ個別にするのか、思い切って2枚組にするのか、はたまた他にも手はあるのか? このままシートでも構わないのだけど、ひとまずプロに相談するだけしてみてもいいかなと考えてる。

川田喜久治「エンドレス マップ」を観て

写真集「地図」は月曜社版もナツラエリ版も見たことがなく、唯一Akio Nagasawa版のサンプルをめくったことがあるくらいだ。あのAN版は定価がプレ値のようなものだったので、さすがに手が出なかった。

プリントは2016年に平塚市美術館の企画展「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」で84点を見ることができた。あれは圧巻の展覧会で本当に観に行けてよかった。川田喜久治の「地図」を初めて体験できた日だった。

久しぶりにPGIでプリントの「地図」を観れるとあってかなり楽しみにしていて、会期2日目に足を運んだ。今回の「エンドレスマップ」は、手漉き和紙にインクジェットで新たな「地図」を制作している。微かに光沢のある手漉き和紙に、モノトーンの「地図」がどっしりとプリントされていた。

もちろん見覚えのあるイメージがあるにはあるのだけれど、かつての「地図」というより、現在の「地図」と思わせる鮮度があり、新作を観ているような気さえした。もっと言えば、これからの「地図」を予感させた。

これまで何度か川田喜久治さんの凄さを、いちファンとして語ってきたけれど、これほどの創作意欲を長年にわたり維持しながらも、常にアップデートし続けて、圧倒的な速度と強度をもって発表し続けていることに、毎度ながら畏敬の念を抱いてしまう。

川田さんを年齢を条件に語るのはもはや無意味ではないだろうか。世代別ではなくてむしろ無差別級こそ主戦場であり、その強さを発揮すると思う。

川田さんのInstagramからセレクトされた新作写真集「20」も抜かりなく手に入れた。これはこれでまたヤバい。読む用、保管用、見せる用の3冊必蔵かな。また、新たな「地図」の写真集も発売予定らしい。これはまた楽しみ。川田さんらしく、再編というか新解釈というか、復刻版ではない「地図」を読んでみたい。もし復刻版だとしても、手に取りやすい、求めやすいものであったならきっと買うと思うけどね。

昨年は個人的なウイスキー元年、今年は2年目のオールドルーキー。

2020年、令和2年は、ひょんなことから個人的なウイスキー元年になりました。お酒は強くない、というか酒量はグラスビール2杯がせいぜいなのに、何故かウイスキーの美味しさに目覚めてしまった。しかもハイボールやロックではなくて、あろうことかストレートで飲んでいます。

といってもね、夜にハーフ以下をゆっくり一杯だけ嗜む程度。酔うためというより、味わうために飲んでいる感じ。加水しながら味変して、チェイサーは頻繁に飲んで口も胃袋もリセットして、決して調子に乗らないように気をつけてます。

蒸留酒は長期保存が効くので自分のスローペースに合っているし、複雑に絡み合う多層的な香りや味わいも好みが多い。またウイスキーの歴史や物語に少しずつ触れながら知識を蓄えていくのも楽しい。

まだバーに行く勇気は出ないので、宅飲みでマイペースにやってます。フルボトルだとお金もかかるし量的にも持て余しそうだったから、今年も量り売りやミニボトルを駆使して、なるべく色んな種類を飲んでみたい。

昨年からまずはスコッチでしょと、味のバランスが良いものが多いスペイサイドやハイランドのシングルモルトやブレンデッドを試しているところ。アイラをいろいろ飲むのはもう少し先かな。何にしてもお酒は弱いので、無理なく続けられる範囲で楽しんでいこうと思っています。

写真に対して少しわがままに

なんだかもう今となっては、写真を小難しくも容易くも考えたくなくなってきている。文脈やコンセプトありきの写真も時と場合によるし、極上のファインプリントというだけでも物足りなさを感じることもある。写真の見方が小慣れてきたというより、むしろもっとわがままになってきている。以前のように好奇心にまかせて何でもかんでもという感じではない。

個人的には、いちいち写真を評したいわけじゃなくて、正面切って興じたいだけ。さらに奥、核心や本質を掴みたいという思いが募っている。初見で衝撃を受けてしまうような強度の高い写真、何千何万と繰り返し見ても飽きることがない写真、いつ見ても新発見のある写真をこれからも見てみたい。

写真に対してわがままに。良いんじゃないだろうか。

東屋の醤油差し

先日久しぶりに吉祥寺のOUTBOUNDさんを覗いてみたら、ある小さな磁器に目が止まる。コロンとした丸みのある形をしていて、まるで柄のない急須みたいだつた。尋ねると卓上の醤油差しとのことだった。

制作は「東屋」さん。全国の熟練の職人の腕を活かして毎日使える生活の道具を手がけているとのこと。この醤油差しは、天草の天然陶石を使い、波佐見の白岳窯で1280度という高温で還元焼成して作られる。艶のある白がとても美しい。蓋の裏や本体の口まで満遍なく釉薬が回っていて、匂い移りの心配がない。

(もしかしたらこれ、ストレートの加水用に使えないかな?)と思いつき、その場で買って帰る。早速使ってみると、これがちょうど良すぎるくらいちょうど良かった。液垂れせず、実に切れが良い。安定して適量の水が注げる。加水用には持ってこいだった。我ながらいい買い物をしたな。

  • 制作:東屋
  • デザイン:猿山修
  • 型:金子哲郎(佐賀県有田)
  • 製造:白岳窯(長崎県波佐見)
  • 材質:磁器(天草の天然陶石)

泉大吾さんのモノクローム

東急田園都市線「池尻大橋駅」から徒歩3分の古典技法を主に取り扱うギャラリー「Monochrome Gallery RAIN」にお邪魔して、泉大吾さんの写真展を観てきた。5月の予定がコロナの影響で10月に順延になっていた。何はともあれ開催されて良かった。

泉さんの写真はモノクロというよりモノクロームって言い方がしっくりくる。略さず長音がちゃんとついて滑らかな感じ。あくまでイメージの話。

今回もギャラリーオーナーさんのセレクトとのこと。特にオフシーズンのビーチの写真が、あまり泉さんが撮らなそうで、選ばなそうな被写体で、とても新鮮だった。プリントも素晴らしい。

リヒターにインスピレーションを得たというベンチの写真も興味深かった。泉さんの写真は、ことさら美術史の文脈を意識するような作品でも、プロジェクトでもなく、強いて言えばライフワークのようなものだろう。

泉さんの作品が面白いのは、意識的にアートの文脈を踏むわけではないが、ファインプリントとしての銀塩を突き詰めながらも、大好きな旅を楽しむ中で出会った絵画や写真に影響を受けて、派性的に美術に興味を持ち、寄り添っていることだ。

リヒター然り、ヴァナキュラー写真然りで、その影響が作品の前面に出るのではなく、写真に染み込み混ざり合い、ひっそり裏に隠れ、時に垣間見える。

一枚の写真を前に、語るに尽くせない状況というのを、泉さんらしいアプローチで作りだしている。それも「好きだから」というシンプルな動機からくるものだ。これはとても豊かで素敵なことだと思う。写真は極めて言語化しにくいけど、抽象的でも良いから絞り出してみて言葉にしてゆくのは相当面白い。

尾仲浩二さんのモノクロの世界

尾仲浩二さんの写真集「Faraway Boat」は昨年10月にすぐさま予約購入した。そのモノクロが見られる待望の個展だったので、矢も盾もたまらず初日に観に行った。写真集も傑作だけど、プリントも最高。とにかく、尾仲さんの写真は、いったん5W1Hを脇においてじっくり観るのが良いな。

いろいろ書きたいことあったけど、天野太郎さんとの対談動画を見たら、もう自分の文章なんて別に良いかなって思っちゃった。だってコレ凄いよ。写真の面白さが濃縮されてて、頷くことしきりだから。珠玉の対談。

前編は身悶えする面白さだし、後編はのたうち回る面白さだからね。(語彙力)

四の五の言わずに視聴すべし。

Talk|尾仲浩二 × 天野太郎(前編)|2020/10/3
Talk|尾仲浩二 × 天野太郎(後編)|2020/10/3